これから、わノ櫓の脇から百間廊下の内部へと入るのですが、その前に、入口右横の白壁に開けられた黒い格子の入った窓の上の方をご覧ください。何やらL字型の黒い釘のようなものが壁から飛び出ているのがおわかりいただけますか? これも姫路城の戦いの歴史を物語る遺物のひとつです。戦いと言っても戦国時代や江戸時代ではありません。昭和の戦い、大東亜戦争のときの話です。
この黒い釘は、空襲から姫路城を守るために建物にかぶせた擬装網用に打ち付けられた釘です。この擬装は、大天守については開戦初期の昭和17年5月に完成し、他の建物も昭和18年12月までにはすべて終了しました。たしかにこの期間に撮影された古い写真を見ますと、姫路城は真っ黒です。これで敵の爆撃機の目をくらませよう、というわけです。
ところで、姫路城は築城当時の姿を今もとどめているのですから、大東亜戦争時も焼失しなかったことは明らかです。これは、この擬装網が功を奏したのでしょうか? それとも姫路には空襲がなかったのでしょうか? 答えはどちらもNOです。姫路は、昭和20年6月22日と7月3日深夜から4日未明にかけての2度、米軍の激しい空襲を受けています。とくに7月3日の空襲では、米軍爆撃機B-29約100機による夜間無差別爆撃が行われ、死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人という甚大な被害を蒙っています。 では姫路城が焼け落ちなかった理由は何でしょう?
日本人の中には、未だに「米軍が文化財を破壊するのを避けた」という、戦後GHQが日本で流布した都市伝説を信じていらっしゃる方も多いようですが、これは今では虚偽であったことが明らかになっています。代表的なものは、米軍は文化財を惜しんで京都への空襲を避けた、というものですが、広島、長崎に続く第3の原爆投下目標地点が京都であったことはよく知られています。京都への攻撃を後回しにしたのは、日本人に対してより強烈なインパクトを与えることのできる攻撃機会を温存していたに過ぎません。もちろん、姫路城への攻撃を避けるような発想はもとよりありませんでした。現に全国で同じ時期に、お城の天守だけでも名古屋城や広島城など7か所の貴重な文化財が米軍の空襲、原爆投下で失われました。
姫路の場合、攻撃目標の中心点は天守の真南約800m、国道2号線のあたりで、そこを中心に半径4,000フィート(約1,220m)の範囲を焼き尽くすよう設定されていました。すなわち、姫路の中心地の民家とともに姫路城の城域すべてを完全に含むエリアです。実際、現在三の丸公園になっている場所には当時鷺城中学が建っていましたが、空襲によって全焼しています。また、西の丸からも不発弾が2発発見されました。では、お城が燃えなかったのは擬装網のおかげでB-29から建物が見えなかったからでしょうか? 当時、日本の地方都市への空襲はすべて夜間の無差別爆撃でした。本土空襲当初の軍事施設への昼間のピンポイント爆撃と違って、昭和20年当時の爆撃の目的は日本人の戦争継続意欲をそぐためのものであり、民間人居住エリアへの夜間無差別焼夷攻撃が中心でした。したがってもともと夜間、高度2,000mから爆弾をバラバラと落すのに目標が肉眼で見えるはずもなく、爆撃手はレーダーに頼って決められた地点に爆弾をばらまいていただけです。擬装網なんて何の役にも立ちはしませんでした。実は、焼夷弾1発が大天守を直撃し、最上階の屋根を突き破って六階に突き刺さっていたのが空襲の翌朝に発見されています。なんとラッキーなことにそれは不発弾で、翌朝すぐに除去されたためことなきを得たのでした。もしこの1発が着火していれば、今日姫路城天守群はこの世に存在していなかったことでしょう。これはもう、刑部大明神の霊験としか説明のしようがありません。
それにしても、悪夢の空襲の夜が明け焼け野原となった姫路の街に、変わらぬ白鷺の城の孤高の雄姿を見たとき、姫路市民の感慨はいかばかりだったでしょう。市民に大きな勇気を与えたものと思います。
この黒い釘も、そんな歴史のひとコマを語り継いでいるのです。以前は城内各所に残されていた黒い釘も修復工事とともに撤収され、今ではここ西の丸に当時の面影をしのばせるだけとなりました。
なお姫路空襲および姫路城が焼失しなかった理由に関しては、WEBサイト「世界文化遺産国宝姫路城」の中の「姫路城不死鳥伝説」のページで、管理人のNさんがすばらしい独自研究の成果を残しておられます。ご興味がおありの方はぜひご参照ください。