上山里丸の、りノ門ともうひとつの出入り口がぬノ門です。建物としては折廻渡櫓から直接接続した櫓門です。門内側から見ると、折廻櫓の入口から櫓門の渡櫓部の二階に直接入れるようになっていることがわかります。それでは上山里丸にはお別れして、短い坂道を下ってぬノ門をくぐりましょう。
この門がいかに厳重な守備力を持っているかが実感していただけることでしょう。本丸へと登ってきたときに通ったにノ門と並ぶ姫路城随一の鉄壁の守りです。さきほど登ってきたルートを往時は「上道(うわみち)」、そしてこのぬノ門から上山里丸、帯曲輪を経由して本丸に登るルートを「下道(したみち)」と呼んでいますが、このぬノ門は下道をおさえる最後の守備の関門です。ちなみに、上道は本丸に登る公式ルートであり、輝政時代に備前丸の御殿に賓客をお迎えするときなどにはこちらが使われていましたが、城主などが日常的に本丸に達するためには下道を使っていた、と言われています。
ぬノ門の扉、柱、冠木などはすべて鉄板で覆われています。また、櫓門の渡櫓部分が二階建てとなっていますが、この形の櫓門はかつて金沢城、彦根城、津山城、伊予松山城にもありましたが、現存例では日本でここだけ、という貴重なものです。これによって、頭上からの攻撃がダブルで集中的に行なうことができるわけです。
門外は、すでにおなじみの折れ曲がりの縄張がここでも採用されています。ここは菱の門前と同じく、枡形と言っても初期の形である外側の高麗門が省略された形です。ただ高麗門はないと言っても、やはりこれから攻略しようとする櫓門のすぐ前の空間が狭い四角形になっていることは、攻め手側の攻撃力に相当のダメージを与えることは間違いないでしょう。
さて、その枡形空間の正面奥、すなわち門を背にして右手の石垣をご覧ください。なにやら石垣から浮かび上がって見えませんか? 大きな二つの目玉に太い鼻、そう、巨大な顔がこちらをにらんでいます。これは決して偶然ではありません。もともとお城の石垣では、重要な場所に鏡石と言ってとりわけ大きな石を選んで配置することがあります。有名なのは大坂城の「蛸石」と呼ばれるタコの形のシミが入った石や、名古屋城の「清正石」と呼ばれる、ほんとうは黒田長政が積んだ気の毒な石ですね。これらは、築城者の威厳や経済力、技術力を訪問者に見せつけるためにわざと一番よく見える部分に積まれているのですが、一方で呪術的な意味合いもあり、城内に入り込もうとした邪気をこのような人智を超えた大きな石でブロックし、跳ね返そうとしているのです。ですから、鏡石は門を入った正面などに配置されている例が多いのです。
そしてこの人の顔に見える石たち、通称「人面石」も呪術的な意味を持たせているのではないか、というのが専門家の見方です。文字通り、門のすき間から忍び込もうとする邪気に対してここでにらみを利かせ、ブロックしているわけです。それにしても、やはり石工のユーモアのセンス、遊び心を感じます。
なお余談ですが、姫路城には巨石を使った鏡石ではないか、と考えられる石垣もあるんです。それは菱の門に向かってずっと右の方、有料エリアの外で、天守の庭の真北あたりの石垣ですが、ここにいくつか周りとは明らかに違う巨石がいくつか積み込まれています。このあたりは秀吉時代の石垣であることがわかっており、これは鏡石ではないか、と言われています。もしこれが鏡石の意味合いで積まれているのだとしたら、ここが大手筋であった可能性が高いのです。実は秀吉時代の姫路城は輝政時代と違って大手口は東側に向いて開いていたのではないか、というのが定説なのですが、これが鏡石なら今の縄張と同様、秀吉時代の姫路城も南を向いて立っていた可能性が出てくるので、非常に大きな意味を持っており、注目されています。
さて、人面石を背にして右手側に高い石垣がそそり立っていますね。備前丸の石垣です。この石垣の角の部分がよく扇の勾配の説明に使われます。稜線が実にきれいに弧を描いて積まれていますね。そして、角の石は長方形の石の長辺と単辺を交互に積み重ねていく、いわゆる算木積みがきれいに見られます。いずれも、石垣が内部からの圧力で前方にはらみ出すのをおさえて、うまく力を分散させる積み方の工夫です。この技術が開発されたことによって、石垣を飛躍的に高く積むことができるようになりました。秀吉時代には、低い石垣を二段重ねで積んでいることは下山里丸で見た通りです。このあたりの石垣は池田輝政の慶長年間の普請ですので、この時期にはすでに石垣作りの技術がここまで進化していたことがわかります。