井戸櫓は、今日一般的には「井郭櫓(いのくるわやぐら)」と呼ばれています。しかしこの名称も江戸時代の記録には見られず、往時は単に「井戸櫓」と呼ばれていたようです。そもそも、「井郭」というのは「井戸曲輪」という意味であり、井戸曲輪はあとで見る、今日「腹切丸」の名で知られる、真ん中に井戸を備えた小さなエリアの別名なのです。もし井郭櫓と名づけるなら、井戸曲輪に面して建つ今日「帯郭櫓(おびくるわやぐら)」と呼ばれている櫓のほうがより理屈に適っているでしょう。どうやらここも、明治時代に誤って記録した建物名称が今日定着してしまったものと思われます。
ご覧のように、建物内部に井戸があります。姫路城内には先ほど見てきました北腰曲輪の多門櫓の中にも井戸がありましたし、狭いエリアに2か所も井戸を備えた建物を見ることができますが、実は日本のお城の中でこれも非常に珍しい櫓です。この井戸も、籠城の時の水源であると同時に、池田輝政時代にはすぐ近くの備前丸に城主の居館がありましたから、池田時代には普段の炊事のための水源としても使われていたのでしょう。井戸の深さは80尺(24m)、水深は6尺(1.8m)で、常時清水を蓄えていたといいます。
この櫓は、乗っかっている土台の石垣の積み方やこの櫓自体の建築様式から考えて、池田輝政以前の時代、秀吉の築城時か、次の木下家定の改修時の建物ではないか、と推測されています。もしかしたら城内での軍議の際に、黒田官兵衛もこの井戸の水で喉を潤したかもわかりませんね。
※写真提供 K.Yamagishi’s 城めぐり