天守へは若干遠回りになりますが、北腰曲輪を歩いてみましょう。 腰曲輪とは、文字通り天守の腰の部分に当たるためにそのように名づけられたものです。本丸の北側一帯を防備する役割を担っている東西に長い変形の曲輪です。
ほノ門を背にする形で前を見ますと、左手には一連の長い建物が連なっていますね。屋根の軒先が美しい弧を描いて伸びているのが印象的です。
こういう長屋のような建物を城郭用語では多門櫓(または多聞櫓)と呼びます。隅櫓が長くなったものという言い方もできますし、塀が厚みをもって防御力を増したものという言い方もできます。織田信長と争った松永弾正久秀が居城多聞山城(奈良)において初めてこの形の櫓を構築したからこの名前を持つ、と伝えられています。当時の鉄砲は火縄銃ですから雨降りにはめっぽう弱かったわけですが、多門櫓内からであれば雨が降っていても平気で射撃ができますね。また平時には通常の櫓と同様倉庫として利用される場合が多いのですが、周囲の環境によっては長屋風に集合住居として利用されることもあります。あとで訪れる姫路城西の丸の多門櫓が御殿女中の住居、長局として利用されていたのはその典型的な例です。
この北腰曲輪の多門櫓は、平時は倉庫として利用されていました。昭和の大修理の際には内部から塩の塊が発見され、ここが塩蔵であったことが分かっています。また、左手手前から二つ目の多門(現在ろノ渡櫓とされている建物)の内部には井戸があるのが見えますね。籠城ともなるとここから飲料水や生活用水を水曲輪経由で天守に運び上げる計画だったのでしょう。
なお、現在この多門櫓には「いノ渡櫓」「ろノ渡櫓」などと「へノ渡櫓」まで渡櫓の名称が振られています。しかし城郭用語の定義から言ってこの建物は渡櫓ではありません。しかも姫路城には、大天守と3つの小天守を結ぶ「いノ渡櫓」から「にノ渡櫓」の4つの渡櫓が存在します。たいへんな間違いですが、定着してしまって今さら訂正もできないような現状です。これも水ノ二門の脇の三ノ櫓(現称にノ櫓)と同様、明治期に陸軍がいい加減な名称をつけて書類に残してしまったからだと思われます。ちなみにこの多門櫓は江戸期にはとくに固有の名称はなく、単に「多門」と呼ばれていたようです。