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姥ヶ石

さて、目を左手の建物から右のそそりたつ石垣に移してください。天守群を支える天守台の石垣です。この天守台は、もとここにあった秀吉の三層の天守を完全に壊して、同じ位置に一回り大きい石垣を積みなおして池田輝政が築いたものです。昭和の大修理のときコンクリートの地盤を埋め込むために天守台を掘ったところ、地中から秀吉時代台が発掘されました。このことをよく覚えておいてから次のお話をお聞きくださいね。

姥ヶ石ほノ門に近い、乾小天守の天守台の石垣の上の方に、何やら金網で囲われて手厚く保護されている白い石が見えますね。説明板もあるのですぐにわかると思います。
これが、姫路城内でも一、二を争う有名スポット「姥ヶ石」です。
言い伝えによると、その昔羽柴秀吉がこの地に城を建てようと思ったが石不足でなかなか思うように工事がはかどらない。困り果てて石を提供するよう城下に触れを出したところ、城下に住む貧しい老婆が「自分は何もお役に立てないが、この臼でも使っていただければ。」と自分が使っている石臼を秀吉に差し出した。おおいに喜んだ秀吉はこの臼をもっとも大事な天守の土台に積み込んだ。この話を伝え聞いた城下の人々は我先に石を提供して、お城はまたたく間に完成したとさ。めでたし、めでたし。

でもちょっと待ってください。もうおわかりですよね。少なくとも秀吉が登場するのは明らかにおかしいですね。この石垣は輝政が築いた石垣であり、秀吉時代のものはその内部に埋まっていますから。
動く姥ヶ石それと面白いのは、この白い石は古い写真と現在の様子を比べて見ると、微妙に位置と見え方が違っているんですよ。左の戦前に撮られた写真では、写真上で黄色く色づけされた目印の石との位置関係を見ると、現在よりひと石分高い位置にあるのがわかると思います。また、現在は横に長く見えますが、戦前は縦長にはまっていたんですね。昭和25年の写真でも戦前と同じだったとのことですから、昭和の大修理のときに何らかの理由で詰め替えられたのかもわかりません。(昭和の大修理の時にこのあたりの石垣は基本的に手をつけていないはずなのですが)
※写真は姫路市立城郭研究室発行「姫路城石垣の魅力」より引用させていただきました。
そして、実はこの逸話、江戸時代以前の文献には一切登場しないんです。姫路城は明治時代陸軍が管理していたものをのちに姫路市に払い下げられ、大正元年から姫山公園として一般公開されたのですが、この姥ヶ石の伝説は、このあと紹介するお菊井戸や腹切丸と同様、この一般公開時に「姫路城おもしろエピソード」として作り上げられたものではないか、と思います。当時の客寄せプロモーションだったのでしょうが、ずいぶん成功したものです。すっかり定着してしまって、今では「この話はウソです」という方が気が引けます。それにしても、やはり関西では秀吉さんの人気は絶大ですね。

こんなのどかな話をしている間も、もしわたしたちが侵攻軍だとしたら姫路城は容赦しません。頭上は東小天守と乾小天守をつなぐろノ渡櫓です。その正面中ほどには見事な唐破風をいただいた格子出窓があります。出窓の下板ははずれるようになっていまして、直下、すなわちわたしたちが今いる北腰曲輪を相当な広角で射撃可能です。よく言われる「石垣を登ってくる敵をこの穴から・・・」なんてものじゃありません。うっかり地上を歩いているだけで狙い撃ちです。

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