りノ門は、今通ってきた帯曲輪と門外に広がる上山里丸をつなぐ、もっとも狭まった部分をおさえる門です。小さな高麗門でさほどの守備力、攻撃力があるように見えませんが、さきほど見た隣接するへノ櫓と一緒になって要衝をしっかりと締めています。
このりノ門は、姫路城内で唯一、池田輝政時代以前に建てられたことが証拠によって裏付けられている建物です。それは、この門の解体修理中に軒天井板の裏面から「慶長四ねん 大工五人」の墨書きが見つかったからです。この墨書きの運筆はこの時代の特徴をよく表しているもので本物と認められますし、天井板や門自体が修復や移築されたものでないことも、解体の結果確認されています。ですから、この門は慶長四年に建てられたものであることが確定するわけですが、慶長四年と言えば秀吉の死の翌年で関ヶ原の戦いの前年にあたります。ときの姫路城主は北の政所の兄の木下家定でした。ですから、この時期に家定がこのりノ門をはじめ姫路城の各所をあらためて整備しているのではないか、と思います。そして、翌年関ヶ原の戦いのあとで姫路城に入った池田輝政は、このりノ門や隣接する備前丸の石垣など要所要所は木下時代のものをそのまま生かしながら縄張りしていることがわかります。
写真左はりノ門を内側から見たところ、右は門を出て上山里丸からりノ門とへノ櫓を見たところです。
※写真提供 K.Yamagishi’s 城めぐり