桜門をくぐって城内側に入ると、そこが「三の丸」と呼ばれる広大なエリアです。ここは天守を正面から仰ぎ見る代表的な撮影スポットのひとつですね。また、桜門を入ってすぐのところに「世界遺産姫路城」の石碑があります。姫路城は1993年(平成5年)に、法隆寺とともに日本で最初に世界文化遺産に登録されました。この石碑の裏側にその経緯を記した説明板が埋め込まれていますので、裏に回って見てみてください。
この三の丸は、往時には3つの御殿が立ち並んでいた区画です。現在三の丸広場と呼ばれている広いスペースの大部分は、向御屋敷(むかいおやしき)と呼ばれた藩主の下屋敷(別邸)が建てられていました。下屋敷は藩主が公務を離れプライベートな時間をくつろいで過ごす別荘です。賓客をもてなす迎賓館的な機能も持っていたものと思われます。屋敷エリアの東半分(市立動物園入口に近い側)には池泉式の広大な庭園があり、その庭園に面して西側(広場中央付近)に数寄屋造りの御殿が立ち並んでいました。
この下屋敷に対して、藩主の日常の住まい兼藩政を執り行う役所にあたるのが上屋敷ですが、上屋敷があったのは三の丸の西半分、桜門をくぐると左折して道なりにまっすぐ行った突き当りに広がる、道路から一段高くなったエリアです。現在は「千姫ぼたん園」として、一般公開されており、毎年桜が終わった4月下旬から5月上旬にかけて、約2,000株のぼたんが咲き競います。ここに立ち並んでいたのが御居屋敷(おいやしき)、御居城(ごきょじょう)または本城(ほんじょう)とも呼ばれる御殿です。表(政務をつかさどる藩庁と藩主との公式な対面場所)、中奥(藩主の日中の御座所)、大奥(藩主の寝所および正室、側室の住まい)の3つの部分から成っており、典型的な江戸時代の城郭御殿の形式を取っていました。
そして、もうひとつの御殿が「武蔵野御殿」です。これは千姫ぼたん園にあがる手前、現在の道路が西向きから天守のほうに向かって右カーブするちょうどそのあたりに建てられていた、比較的小さな御殿です。これは、1617年(元和3年)伊勢桑名の地から姫路に転封した本多忠政(徳川四天王のうちの一人で槍の名手本多平八郎忠勝の嫡男)が、息子の忠刻と千姫の新婚夫婦のために建てた下屋敷で、ここを武蔵野御殿と呼ぶのは千姫が長年住み親しんだ武蔵野(江戸)の風情を表すために、その襖絵にすすきの画をあしらったから、と言われています。なお、彼らの上屋敷は西の丸内にあった中書丸という御殿でした。
さて、今度は視線を足元に落として、もう一度桜門から入ってすぐあたりから武蔵野御殿跡に至るあたりの路上を見てください。何やら白線があちこちに引かれていますね? 実はこれは往時の建物と通路の様子を表した平面展示なのです。現在の桜門(往時の桐の二門)を入ったところが閉鎖的な空間になっており、桐の二門が迫っていたことが実感できると思います。また、天守に至る通路は現在の道路より東寄りのところを走っていたこともわかります。このあたりの位置関係は、17世紀末ごろに描かれた「播州姫路城図」の絵図面を見るとさらにはっきりします。
さきほど説明した「武蔵野御殿」の跡地に、ちょっとした見どころがあるのでご紹介しておきましょう。桜門から道路をまっすぐに武蔵野御殿の方向(西向き)に歩いてくると、左手、土塁の脇に妙に整然とした石垣が積まれているのが目につきます。お城の石垣は、その積まれた時代によって荒々しい積み方(野面積み)からきっちりと石を整形して隙間なく積む積み方(切り込みはぎ)まで、さまざまな種類があります。実は、姫路城は長い期間にわたって何人かの城主が石垣を積んでいますので、時代の異なった石垣が見られるのも姫路城の醍醐味のひとつではあるのですが、こんなにきっちりと石を立方体に加工、成形して積木細工のように積んでいる石垣は城内にほかにありません。石垣の歴史から言えばこの石垣は相当新しいもの、と推測されそうですが実はそうでもなく、これは本多忠政の元和年間のものであることがわかっています。ここは武蔵野御殿の庭園の一部で、この石垣は庭園を彩る庭石なのです。そこで、武骨な城の石垣とは違った優美な趣を表すために、このような細かい細工を施した石垣を積んだものと思われます。
これに似た遺構は、金沢城の庭園である玉泉院丸庭園でも「色紙短冊積石垣」として見られますが、こちらは姫路城より20年ほどあとの作庭なので、この石垣は当時の最先端技術と言えるかも知れません。現在は1.5mほどが地上に顔を出しているに過ぎませんが、発掘調査でかなりの部分が地下に埋まっている(往時の地表は現在より1~2m低かった)ことがわかりました。