帯ノ櫓の脇に、建物の下をくぐるトンネルのような下り階段がありますね。これを降りて行ってみましょう。
このトンネルは埋門の一種です。埋門についてはほノ門のところでご説明しましたが、ほノ門のように土塀の下の石垣を一部切り欠いて門としたものも埋門と呼びますが、ここのように石垣そのものをくりぬいて道をつけたものも埋門と言います。
さて、この埋門を抜けると小さな袋小路の曲輪に出ます。ここがあの有名な「腹切丸」です。
さすがに今では、ここで実際に切腹が行われた、とか切腹のために作られた曲輪、などという説明をする人はいなくなりましたが、未だに「櫓の一階にしつらえられている石打棚が検視人の席、井戸が首洗いの井戸のように見えたのでそう考えられた」なんて言う説明は多いですね。実はこれも嘘で、実際には姫路城が大正元年に姫路市に払い下げされ、一般公開するにあたって作り上げられた「三大おもしろエピソード」のひとつだったのです。ひとつはすでに見てきた姥ヶ石でした。あとひとつは何でしょう? このあと見に行きますよ。
とにかく、この宣伝が効きすぎて腹切丸の名称は、切腹の場所との理解とは切り離してももはやこの場所の固有名詞のようになってしまった感があります。ちなみに、公式な名称は井戸曲輪です。曲輪の真ん中の井戸に由来しているんですね。
そしてここに建っている櫓を帯郭櫓(おびくるわやぐら)と言います。建っている場所は井戸曲輪なのに、ややこしい名前ですね。さきほどのちノ門から帯ノ櫓、帯郭櫓の横を通って次のりノ門までの細長い通路のようなエリアを帯曲輪と呼ぶから、との解釈もありますが、帯郭櫓自体はこのエリアから離れたところに建っているのであまり説得力はありません。
さてこの建物はちょっと特徴的な形をしています。城内側に壁も扉もないのは、さきほど見た井郭櫓と並んで珍しいですね。それから、この建物は二階建てですが、実は一階部分は腰のあたりまで城外側は石垣に覆われていて、半地下のような形になっています。それで、その石垣の上の狭間から射撃をするために石打棚という棚をもうけているのです。まるで現代のロフトのような空間ですね。二階も同様に狭間が開けられていますので、城外から見ると狭間が上下二段にずらりと並んでいます。
もうひとつ、この曲輪での見どころは帯郭櫓に向かって左手の塀です。上に添付しました写真でも左端にちらりと見えますが、塀の内側に控え塀があります。 実は、姫路城は塀の造り方においても日本の城の中ではマイナーな存在なんです。普通、お城の土塀はまず木を等間隔に立ち並べて主柱とし、その間を竹を編んだ小舞で結んでそこに土壁を塗り重ねて塀として仕上げます。また、塀もろとも引き倒されるのを防ぐために城内側に木製や石製の控え柱を立てて補強する場合が多いです。しかしここ姫路城の土塀の造り方はまったく違っていまして、あらかじめ粘土で作った30cm角ほどのブロックを積み上げ、仕上げに漆喰を塗る工法です。こういう工法の塀は岡山県の備中松山城でも現存例が見られますが、珍しいものです。一般的な塀に比べてたいへんぶ厚く、引き倒しに対する耐久力もあります。姫路城の土塀はほとんどこのやり方で造られていまして、控え柱もありません。ところが、ここ井戸曲輪の短い塀と、もう1か所、るノ門に近い三国堀に面した塀の2か所だけには控え塀が設けられています。いずれも塀の外は地面から高い位置で、直接敵兵が取りついて引き倒しを図るような場所でもないので、なぜこんなところに特別に控え塀を設けたのか不明です。一説には、この上に板を渡して臨時の石打棚を作りそこから射撃をする、などと言う推測もありますが、そんなことすれば射撃手は敵に身をさらすことになりますから、あまり現実的ではありません。謎です。
ではもう一度埋門をくぐって、元の通路に戻りましょう。