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菱の門

菱の門ここから姫路城の中核部分が始まります。これまではお城と言っても藩主の住居や役所のエリアでしたが、ここからがいよいよ戦いを想定したエリアとなります。お城を造る側はここから大天守最上階まで、一貫して「いかに防禦、反攻するか?」を念頭に設計、土木、建築を行なっています。訪ねる側は攻め手となって「これら防禦、反攻をかいくぐっていかに攻略するか?」の視点で登ってみてください。
そういう意味で、登閣口をくぐるとさっそく防禦は始まっています。まず緩やかな上り坂と通路を左に右に、と屈折させることで攻め手の勢いをそぎます。この屈折は、城門の前ではよく見られる枡形という形状です。築城年代がもう少し下がると、この屈折の手前側(城外側)に高麗門、奥側(城内側)に櫓門という形式の門をそれぞれ構え、周りを土塀で囲んでその間に文字通り枡のような四角い空間を形作るのですが、姫路城が今の形に整えられた慶長年間にはまだ手前の高麗門はそれほど一般的ではなく、奥側の櫓門だけが建てられています。
そして、その櫓門こそが今あなたの目の前に堂々と建っている「菱の門」です。

菱の紋扉の左右に立つ二本の太い柱をご覧ください。左側の柱には墨痕あざやかな「国寳姫路城」の看板がかかっていますね。この両側の柱を門の「鏡柱(かがみばしら」と呼びます。そしてその鏡柱が上部で横に渡されたこれまた太い梁を支えています。この梁を門では「冠木(かぶき)」と呼びます。さて、この菱の門は両側の鏡柱のすぐ上の冠木の部分に大きな「菱」の紋が彫り込まれていますね。このためこの門は「菱の門」と呼ばれるようになりました。
この菱の門は、姫路城の数ある門(最盛期には全城域で大小60以上の門があったと言われています)の中でも、間違いなく最大の門です。そして、その大きさだけでなく意匠的にも他に類を見ない、圧倒的な豪華さを誇っています。

菱の門意匠まず正面2階のさまざまな種類の窓をご覧ください。中央は黒漆塗りに金の飾り金具で装飾を施した三連の格子窓、その左右にはこれも黒漆に飾り金具の釣鐘型の窓。これは「華燈窓(かとうまど)」と言って、金閣寺や銀閣寺でも用いられているように、格式の高い禅宗系のお寺でよく見られる窓の形態です。姫路城では乾小天守や西小天守の窓にも採用されていますので、あとで見てください。そして一番右は白漆喰塗りの出格子窓です。お城の門にこれだけの華麗な意匠を施した窓が、しかも同時に3種類も用いられるのはたいへん珍しいことです。
それから、1階、2階の壁の部分をご覧ください。表面は白漆喰塗りですが、柱や長押の形が浮き出ていますね。これは真壁(しんかべ)造りと言って、これも大壁造り(柱や長押をすべて漆喰で覆ってしまい、外観からは見えなくする)より格調の高い工法です。姫路城では大天守最上階の窓の周りにも同じ工法が見られます。
このように、菱の門は戦いの場としての城門のわりには豪華、華麗、格調と言った言葉が似合うような建物で、全国的にも非常に珍しい存在です。お城の中枢部に登る最初の関門、いわばお城の「顔」とでもいうべき建物なので、訪れる人を唸らせる格調を盛り込んだのかもわかりません。あまりの華麗さに、「あるいは秀吉の隠居城であった木幡山伏見城から移築したのでは?」という推測をする人もいます。関ヶ原の戦いの前哨戦で伏見城が石田三成に攻められて落城した際、三成がすべての建物を焼き払ったという説と、そうではなく一部は各地に移設された、という説がありますが、池田輝政が姫路城を築いた年代とちょうど合致するので、菱の門に秀吉の伏見城の面影を探すのも無理からぬことだと思います。とてもロマンを感じますが、残念ながらそれを証明する歴史的な証拠はどこにもなく、単なる妄想に過ぎません。(なお、日本各地のお城に時折見られる「伏見城から移築の櫓」などはすべて徳川家康がその後建てた伏見城であり、秀吉のそれとは関係ありません。)
もちろん、菱の門はただ華麗なばかりの門ではありません。いざ戦ともなれば、この2階部分には大勢の城兵が詰め、華麗な窓はたちまち敵兵を撃ち抜く銃眼へと変身します。
日本の城郭建築の中でもたいへんユニークで、すぐれた意匠を誇る菱の門が400年以上の星霜を経て今日現存していることがほんとうにラッキーだと思います。

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