武蔵野御殿跡から北に進路を変えて、広大な三の丸広場を右に見ながら天守に向かってどんどん歩きます。そうすると、右手前方に何やら木造の長屋のような建物が見えてきます。ここには、昭和31年から39年にわたって行なわれた天守の解体修理のときに取り換えられた「西の心柱」の現品が保存されています。姫路城の大天守は、池田輝政の築城時より東西2本の心柱が地階の床(礎石上)から最上階6階の床下(5階の天井)までを貫通して建物を支えてきましたが、昭和の解体修理時に調査するといずれも内部の腐敗、老朽化が激しく、取り換えることとなりました。東の心柱はもと樅(もみ)の一本材でしたが、根元部分5.4mだけを耐久性の高い台湾檜に取り換え、他は再利用されました。西の心柱はもともと上部12.4mが栂(つが)材、下部14.5mが樅(もみ)材(継手部分2.2m、全長24.7m)の二本材でしたが、継手部分を中心に全長で腐敗が激しく、すべてを交換することになりました。当初、檜の一本材で再建するべく適当な檜を求めて日本全国を探し歩いた結果、岐阜県恵那郡、木曾の山中の国有林に目指す檜をやっとのことで見つけます。ところが伐採時に倒れる方向が悪く真ん中から折れてしまいます。同じ国有林で見つけた2本目は無事に伐採できたものの、ふもとまで運んできたところで貨車から落下してこれも途中で折れます。もはや工期の関係で新しい材を探している時間的な余裕もなく、やむなくこの折れた材の根元部分15.6mに、兵庫県神崎郡笠形神社境内の檜12.5mを継ぎ足して使用することとしました。ところが工事を進めるうちにわかったことですが、東西両方の柱を一本材で立ててしまうと、上層階のほうはあとでこの心柱間に横に梁を通すことはできません。もともと西の心柱が二本継ぎになっていたのにもこのような理由があったのですが、当初はこれがわからず、何とか一本材で使える木を、と全国を探し回っていたのでした。二度にわたって立派な檜材が折れてしまったのは、山の神が「一本材では使えないよ」と教えてくれていたのかも知れません。
このような苦労の末に取り換えられた西の心柱が、350年の務めを終えて今日ここに静かにその巨体を休めています。