天守の庭を見たら、そのまま東(登閣口とは逆)のほうに少し進んでみましょう。行く手の短い坂道を上り、小高い広場に出ます。この一帯が「下山里丸(しもやまざとまる)」と呼ばれる曲輪です。
目の前に広がるこの荒々しい石垣をご覧ください。この積み方は、他のほとんどの姫路城の石垣と大きく違っています。まず積み方は石をほとんど加工しないでそのまま積み上げ、石と石の隙間には小さな石を詰める「野面積み」が採用されています。また、石垣が二段になっています。これは技術的にまだ高い石垣が築けなかった慶長以前の時代に用いられた手法で、現在、洲本城などにもその遺構が見られます。また織田信長の居城で安土城の原形ともなったと言われる愛知県の小牧山城では、最近になって二段積みをしのぐ三段積みではないか、と言われる石垣の遺構も発掘されています。
このような形状から、この部分は池田輝政の築城よりは前の時代、具体的には天正年間の羽柴秀吉の築城のころに積まれた石垣であろうと考えられています。羽柴秀吉の残した書状の中に、本格的な毛利攻めにあたってはここ姫路の地に信長を迎え、ここを本陣として信長じきじきの采配で中国を平定する、と言う構想をつづったものが見つかっています。それを考えると、秀吉が相当気合を入れて姫路城を整備したことが想像されます。この石垣なども、当時の最先端の技術を駆使したものであったのではないか、と思います。
また、この石垣を正面にしてずっと左手奥のほうを見ると、小さな祠といくつかの五輪塔、石灯籠が見えます。これらの五輪塔は、修復工事の際に石垣から取り出されたものを組み上げてここに祀っているものです。また石灯籠は、姫路城最後の藩主にして名君の誉れ高かった酒井忠邦公を慕った旧姫路藩士322名が忠邦公の一周忌である1880年(明治13年)に東京谷中の墓前に建立したもので、1990年(平成2年)にこの地に移されました。
さぁ、いよいよ登閣口から入城いたしましょう。