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備前丸

この広場全体を備前丸と呼びます。すでに何度かご説明しましたように、池田輝政が姫路城を築城したときにここに居館を建てて、藩主と家族は実際にここに住んでいました。それは3代目の光政が鳥取に転封となり姫路を離れるまで続いたようです。なお備前丸という呼び方は池田家時代にはされておらず、次の本多家時代以降にこう名付けられたようです。播磨・淡路・備前三国に君臨した西国将軍池田輝政を偲んで、あるいは後年池田家が備前岡山を本拠としたことからのネーミングではないでしょうか。
写真は、K.Yamagishiさんが大天守一階から備前丸を見下ろして撮影されたものです。

築城当時はこの広場いっぱいに御殿が建てられていたものと想像されますが、元禄年間(1700年ごろ)に描かれた絵図にはすでに、一番東側(備前門に近い側)の御台所と料理之間以外の御殿は描かれていませんので、この時期までには取り壊されていたようです。いや、池田家のあと元和3年(1617年)に姫路に入った本多忠政は居館をあらたに三の丸に建てていますから、この備前丸に御殿を残しておく必然性はなく、この時点ですぐに取り壊していた可能性の方が高いと思われます。あるいは三の丸の新御殿の部材として、備前丸の部材が転用された可能性もあるかも知れません。

さて、広場の真ん中あたりで天守を背にしてぐるりと見回してご覧ください。一番左手が今入ってきた備前門、一番右手がさきほどいったん天守入口前まで来て引き返した水ノ三門から広場に下ってくる通路が見えますね。
そしてこの間の目の前の弧を描く石垣の天端に、往時はすべて櫓と長局が建っており、この備前丸は完全に閉鎖空間となっていました。城主が住む館ですから当然ですね。下に添付しました見取り図をご覧ください。赤い表示は現存の建物、黒い表示が明治時代まで残っていた建物を表しています。(御台所と料理之間は省かれています) 西の端、水ノ三門に隣接する位置に第二櫓(カタカナではなく漢数字の二です)があり、そこから棟続きで「対面所」の表記が見えますね。ここは公式の行事を行なう広間です。おそらく御殿へは、水ノ三門をくぐってすぐ右側の第二櫓にまず入って、そこから対面所の脇の廊下を通って入っていくのが正式のルートだったと思われます。対面所から東の方に向かっても長局がぐるりとめぐらされ、要所要所には二層の櫓が配されていました。これらがすべて残っていれば備前丸の景観もさらに重厚さを増していたことでしょう。
これらの建物は明治15年(1882年)の火災でことごとく焼失してしまいました。せっかく江戸時代を通じて残ってきたのにまことに惜しいことです。ただ、考えてみると江戸時代の早い時期に取り壊された御殿がすべて残されていて火災になったら、もしかしたら天守群にも延焼してすべてが失われていた可能性もあります。天守に近い部分に建物がなかったのは不幸中の幸いだったかも知れません。

そして、クルリと後ろを振り返ってみましょう。五重六階地下一階、総重量5700トン、石垣の高さ15m、建物の高さ31mの堂々たる大天守があなたを見下ろしています。
石垣の下の部分だけ色が違うのは、あの部分には常に雨が当たるため長い年月の間に雨に含まれる酸やごみのために石が黒ずんでいるのです。逆に言うと、あそこから上にはあまり雨が当たらないんですね。
さぁ、この雄姿を存分に撮影してください。
※写真提供 K.Yamagishi’s 城めぐり

 

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備前丸見取り図

 

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