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をノ門・りノ櫓跡

りノ櫓跡ぬノ門を出て、扇の勾配を右手に見ながらそのまま道なりに進むと、左側から石垣が突き出て道が狭まっています。この狭まった部分に往時は小さな門が建っていました。をノ門です。規模は桁行2間と言いますから、上山里丸の出口をおさえるりノ門よりさらに一回り小さい可愛らしい高麗門だったようです。そしてをノ門に接して、左側の石垣にはりノ櫓が乗っていました。ちょうどりノ門に接していたヘノ櫓と同じぐらいの大きさの平櫓でした。この門と櫓は明治15年、陸軍が駐屯していた時代に失火によって焼失してしまいました。今日、櫓台の石垣には、火災の跡である赤く焼けただれた跡が生々しく見られます。
もうひとつ、この石垣を見てわかることは、この石垣の石はきれいな四角形になっていることです。秀吉時代の野面積みの石垣はもちろんのこと、輝政時代の一般的な打ち込み接ぎの石垣とも違った、もっと整然とした石が積み上げられています。石の表面をかなり削って、四角く加工したことがわかります。これはあとの時代に切り込み接ぎと言われる石積み、加工技術ですが、この石垣が作られたのはあくまで輝政の時代です。なぜかこの小さな場所だけ、とくに石工が腕によりをかけて時代に先駆けた技術で石垣を積んだようです。姫路城内で切り込み接ぎの石垣が見られるのは、こことこのツアーのはじめのほうでご紹介した桜門近くの武蔵野御殿の庭石だけです。武蔵野御殿のものはあきらかに「見せるため」の石垣芸術とでもいうものですが、このりノ櫓の櫓台は戦いの場ですから、ここだけなぜこんなに手の込んだ加工をしたのか、謎です。なお、このをノ門跡を出ると、そこはすでに見た補強の石垣のところ、すなわちいノ門を入って右手に回ったところです。先にお話ししました「下道」がまさにこのルートなのです。

控塀さて、りノ櫓跡から少し後ろに戻って、土塀を見てください。帯郭櫓でも見ました控塀がありますね。この土塀の外側は三国堀です。なぜここにわざわざ控塀があるのか、これもあまり合理的な理由が見つかりません。
それから、この土塀、なんだかちょっと変だと思いませんか? 土塀が変というより、そこに開けられている狭間の位置、高さです。狭間は銃眼ですから、当然射撃手が撃ちやすいような高さに設置されていなければいけません。通常、弓は立って撃つので矢狭間(長四角のもの)は下から75cmほどのところに、銃は片膝をついて撃つので下から45cmほどのところに開けられます。ところが、ここの土塀に開けられている狭間の位置はいずれも地面ぎりぎりの位置です。これでは腹這いになって撃ってもまだ低すぎるぐらいです。なぜこんなことになっているのでしょうか? これは理由は案外簡単で、どうやら後の時代になってここには土が盛られて、地面の高さが上がったからのようです。もちろん元はちゃんと撃ちやすい高さに開けられていたようです。

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