またまた名称のお話しで申し訳ありません。これまでも再三にわたり、現在姫路城内の案内図やパンフレットに書かれている門や櫓の名称が江戸時代に呼ばれていたものとは違う部分があることを指摘させていただいてまいりました。この西の丸でも非常に多くの混乱がありますので、ここでまとめてお話しいたしておきます。
この混乱もやっぱり、陸軍が明治時代に姫路城を接収して台帳をつけたときに生じた誤りが尾を引いているのです。 まず、渡櫓という呼び方です。現在、城郭用語では渡櫓とは「天守と隅櫓(または小天守)、隅櫓と隅櫓をつなぐ長い櫓」と「櫓門の上階にある櫓部分」の2種類のものをいう、と定義されています。それは江戸時代に呼びならわされていたものを現代になって整理するとこういうことだった、ということです。こいう整理は明治時代にはなされていなかったでしょうから、姫路城では、陸軍が台帳に記載するときに単に長い形の建物をすべて「渡櫓」としてしまったとしても責められはしません。江戸時代の常識では、長屋風の単に長い建物は多門、または多門櫓と称していました。実際、北腰曲輪の多門櫓群は明治以降、◯ノ渡櫓と称していますが、どこから見ても渡櫓の定義には当てはまりません。しかも、大天守と小天守をつなぐ4つの渡櫓、こちらは正真正銘の渡櫓ですが、これらが「い」から「に」まであるにもかかわらず、まったく同じ「い」から始まる渡櫓名をつけてしまっています。こういう単純なミスは昭和の大修理以後にでも修正するチャンスはあったと思うのですが、残念ながら今日に至るまで放置され続けています。 そしてここ西の丸に現存する多門櫓には「か」から「れ」の渡櫓名がふられています。不思議なことに、上山里丸の「りノ一、二渡櫓」(正しくは折廻渡櫓)のあと、「ぬ」から「わ」の渡櫓が欠番になっています。明治時代、この間に4つもの渡櫓が存在していたわけでもなく、なぜ西の丸の渡櫓(?)を「か」から命名したのか疑問ですし、非常に不合理です。ちなみに、幕末の安政年間に姫路藩士福本勇次が編纂したと伝わる「村翁夜話集」の詳細な記録によると、これらの建物のうち、化粧櫓に近い方の現在かノ渡櫓、よノ渡櫓と言われているものは、長局と記載されています。西の丸に中書丸御殿があった本多忠刻・千姫の時代にはここに奥女中が住んでいたので、この名前が定着したものでしょう。ただし、前にも言いましたように元禄時代にはすでに西の丸にはほとんど建物はなかったようですから、長局という名前だけがあたかも固有名詞のように残った、ということですね。それより南側の現在たノ渡櫓、れノ渡櫓と言われている部分と現在は失われて仮設廊下になっている部分の建物は、「村翁夜話集」では単に多門と書かれているだけで、一棟ごとの固有の名前はありません。 それから、もっと深刻なのは二重櫓のをノ櫓です。をノ櫓は「村翁夜話集」によると現在の仮設廊下の南端の二階建て部分なのですが、現在では同じく仮設廊下の反対側、北端の二階部分をそう称しています。ここの混乱は実は陸軍には罪はなく、陸軍のリストにおけるをノ櫓は「村翁夜話集」と同じものになっています。ところがのちの時代になって文部省が作成した図面などでは仮設廊下を挟んで北に40mほど移動した別の二階建て部分ををノ櫓としてしまっています。このあたりは大正8年に大改修をして痛んだ石垣や建物を取り払ってしまったために、見間違いをしていい加減な命名をしてしまったものと思われます。何とも残念なことですが、これも訂正せずに今日まで放置されています。 ただ、ここのサイトでは、原則として「村翁夜話集」等の江戸時代の呼称を尊重しつつも、西の丸に限っては現在の誤った名称も併記しながらご説明を進めていこうと思います。それは、本丸部分の間違いと違ってここでは他の建物と重複した名前があるわけではなく西の丸だけで完結していること、それと非常に長い建物なのに単に長局とか多門とか、適切な区切りで固有名詞がないのもかえってご説明がしにくいと思うからです。 なお、隅櫓に関しては上記をノ櫓の位置を除けば、「ぬ」「る」「わ」それぞれの櫓とも往時の名称そのままです。 下の見取り図の建物名称のうち、かっこ無しが「村翁夜話集」の表記、かっこ付きが現在の表記です。