にノ門をくぐって西北腰曲輪に入ると、いよいよ天守群が目の前に迫ってきます。 順路に沿って歩を前に進めましょう。さきほどの鬼気迫るほどの気迫にあふれたにノ門とはうって変って、なんとも可愛らしい門が見えます。ほノ門です。
この門は城郭用語では埋門(うずみもん)と呼ばれる門です。埋門には、石垣上の土塀の下の一部を切り欠いて門とする形と、石垣そのものに穴を開けて通路としてそこを門とする形の二種類があり姫路城にも両方のタイプの埋門が現存していますが、ほノ門は前者の典型的な例です。
埋門はその形状から必然的に小さな門とならざるを得ませんので、攻撃にはあまり役に立ちませんが、防御力はそれなりにあります。それは、敵が迫ってきたら門の内側から石などで通路をふさぎ、門自体をなくしてしまうことができるからです。このほノ門もその点よく考えられており、門内がすぐ登り階段となって扉を閉めると内側に石を詰め込むことが容易な構造になっています。また門扉はにノ門と同様、総鉄板張りになっています。小さいながら鉄壁の守りを誇っている、と言えますね。
もし内側の石を取り除いて門を通過できるようになったとしても、この門の小ささは一度に多くの軍勢を通すことができず、「時間稼ぎ」という守り手の思惑を叶えます。
また、ほノ門をくぐって入ったすぐ右手に、奇妙な壁がそそりたっています。通称「油壁」と呼ばれている築地塀です。真っ白な漆喰塗籠めの壁が続く姫路城の中にあって、この茶色い壁はひときわ異彩を放っています。 この壁についてはいろいろと謎が多いです。まずその作り方の謎ですが、ガイドブックなどには「粘土に豆砂利を混ぜて、米のとぎ汁で固めたものでコンクリートのように固い」などと書かれていますが、姫路城英語ガイドの三左衛門さんのブログによると、姫路城漆喰職人の方のお話として「米のとぎ汁を混ぜたぐらいでできるのならこんなに簡単なことはない」とのこと。職人さんの言葉は重いものがあります。 実は菜種油を混ぜ込んでいるのではないか、それで「油壁」という名称があるのではないか、というのが三左衛門さんの推測です。 工法としては「版築」という作り方で築かれています。これはお寺の塀や、古くは奈良時代の朝鮮式山城などでも用いられている古式な壁の作り方です。両側に木で作った型枠を当て、その間に壁土を少しずつ敷いては上から棒などで突いて固め、徐々に高く積み重ねていき、最後に型枠をはずす、というものです。だから壁に横縞が残っているのですね。 漆喰壁よりはるかに手間のかかる作り方だと言えます。 で、次の謎は、この壁は誰によって作られたのか、そしてなぜこの場所だけそんな手間のかかる壁を作ったのか、ということです。 まずよく言われるのは「この古い壁は秀吉時代の姫路城の名残り」というもの。しかし、この壁が乗っている石垣を見る限り、秀吉時代の野面積みとは見えません。少なくとも池田輝政時代の打ち込み接ぎの石垣のように思えます。また隣接する天守台は、輝政の改修時に秀吉時代の天守台の上から完全に覆う形で再築されたことが発掘でわかっています。そうするとこの周辺の縄張も再考されたはずなのに、この部分の壁だけ秀吉時代のものを残した、というのは考えにくいですね。やはり油壁も他の建築物と同様輝政時代のもの、と考えるのが自然なのではないでしょうか。 では、輝政時代の壁はほとんどすべてが漆喰の白壁なのにここだけなぜ築地塀なのでしょうか? そのヒントは油壁の高さにありそうです。油壁は高さ2.8m、底部の厚さ1.2mの大きさです。まず、漆喰塀では物理的にこんなに背の高い塀を作ることはできません。では、なぜこんなに背の高い塀を作らなければいけないか、というと、ここが天守の喉元をおさえる要衝だからです。油壁を袖塀としている次の水ノ一門の防御性を高めるために、低くて簡単に突き崩せる漆喰塀でなく、敢えて手間のかかる油壁を用いたのではないでしょうか? これも、守り手の最後の「時間稼ぎ」の戦略と言えそうです。
さて、ほノ門を駆け上がると天守台の石垣に沿って行く手は二方向に分かれます。右に大きくUターンして次の水ノ一門を蹴破るか、左手に多門櫓を見ながら直進するか? いずれの進路を取っても、小天守や渡櫓の石落としや出窓のすき間から弓矢や砲弾が雨あられと降り注いできますが、ここはひとまずUターンする道を取りましょう。ほノ門を抜けると、すぐ右斜め後ろの水ノ一門はちょっと死角になって気づきにくいのですが、実は大天守へはこちらが近道ですのでね。もちろん敵の軍勢には内緒ですよ。
直進して北腰曲輪に進む