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いノ門

いノ門さて、われわれも姫路城攻略軍の一員として、狭間からの攻撃や後ろからの挟み撃ちに気を付けながら、三国堀を右に見て直進しましょう。さきほどから行く手に見えている小さな門が、姫路城「いろは付き門」の第一番目、「いノ門」です。これは城内の門としては小さくて貧弱な門です。先ほど三国堀のところでも述べましたように、敵を直進させるためにわざと貧弱な門にしているのではないか、と思うほどです。
門の形式としては「高麗門」という形式です。これはお城の門としてはよくある形式のひとつです。両開きの門の扉を開いたときに、扉に雨がかからないように保護のために内側の左右にそれぞれ小さな屋根をつけた門のことをこう呼びます。姫路城にもたくさんこの形の門があります。思えば、一番最初に橋を渡ってすぐにくぐった現在の桜門も、巨大な高麗門でした。
なお、高麗門と言っても別に高麗(朝鮮半島)から伝わったスタイルというわけではなく、我が国のオリジナルです。ちょうど秀吉の慶長・文禄の役(唐入り)の前後に考え出された建築スタイルだったために、「ハイカラ」「最先端」という意味で「高麗」とネーミングしたようです。当時からやはり舶来には弱かったのでしょうか?
いノ門をくぐって中に入ると、正面にまた同じような「ろノ門」が見えます。でもまっすぐろノ門に向かうのではなく、ちょっと寄り道しましょう。右手の方にお進みください。門内すぐ右手には井戸があります。籠城戦を想定するならお城にとって飲み水の確保は最重要課題です、姫路城には往時、内曲輪(桜門より内側)内に33か所の井戸が掘られており、現在はうち13か所が残っています。ただほとんどの井戸は現在すでに水が枯れているのに、この井戸は今でも水をたたえ、水深が2mもあるそうです。これは、三国堀のところでご説明しましたように、ここが昔は谷にあたっていることと関係があるのかもわかりません。
そのまま塀沿いに進んでください。この塀の狭間から覗いてみましょうか。三国堀が見えますね。三国堀に落ちた敵兵を、ここからだと余裕を持って狙えそうですね。

補強の石垣それから、視線を正面の高い石垣に転じてみてください。なんだか四角く飛び出した石垣がありますね。これは、江戸時代に石垣が前方に膨らんできたので、崩壊を避けるために抑えとしてあとで積んだ石垣です。
それではUターンして、さきほどのろノ門のほうに戻りましょう。

 

 

爆破された石垣ろノ門を正面に見て右手の石垣の一部に、少しだけ新しい部分があるのにお気づきでしょうか? この石垣は、昭和初期に姫路城で起こった大事件の跡を物語っています。
ときは昭和12年、衣笠貞之助監督作品、松竹映画「大坂夏の陣」のロケが姫路城内で行われていました。この作品は千姫に山田五十鈴、秀頼が坂東好太郎、淀殿に東山千栄子、坂崎出羽守が林長二郎(のちの長谷川一夫)という当代の人気映画スターを起用した一大歴史スぺクタクル映画でした。映画のクライマックスとも言える、徳川方の兵士が秀頼以下豊臣方が籠る大坂城の石垣を登っているときに砲弾が炸裂する、という場面を、あろうことか姫路城のほんものの石垣の前で撮影することとしたのです。
当初の計画では、石垣に少量の爆薬を仕掛け、石垣の隙間に詰めた小石が飛び散るぐらいの爆発を起こすことになっていたものが、撮影スタッフが火薬の量を間違えて、大人が数人がかりでも動かせないぐらいの大きな石が空中を吹っ飛ぶぐらいの大爆発を引き起こしてしまいました。そして不幸にも撮影を見物していた女性1名が石の直撃を受けて亡くなり、ほかにも重軽傷者5名、という大惨事になったのです。当時、この場所がちょうど石垣の積み替え予定になっていたために、姫路城の工事主任が安易に松竹側の要請に応えたことが後日明らかになりました。この事件で映画の助監督2名と煙火製造業者1名が業務上過失致死で執行猶予付きの有罪判決を受けました。また当時の姫路城管理事務所責任者と撮影を許可した工事主任は解職されています。
この事件のあとで積み直された部分が、妙に新しく見えるんですね。(新しいと言っても80年近く前のことですが)

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