世界遺産 国宝姫路城のすべてをご案内いたします

西の丸へ

西の丸への階段るノ門をあとにして、三国堀を右手に見ながら菱の門のまで戻りましょう。そして、最初に見た俯瞰図の看板と中村大佐の顕彰碑の前を通り過ぎて左折すると、緩い上り階段となります。ここが西の丸への入口です。
現在天守群が建っているところは姫山と呼ばれる小高い丘の山頂で、これまで見てきた本丸、二の丸はすべて姫山エリアでした。それに対してこれから訪れるのは鷺山と呼ばれる丘を削って整地したところです。現在の西の丸が秀吉時代、輝政時代にどのような姿であったかは確かな記録が残っていないのではっきりしませんが、昭和の修理のときに地下から古い石垣の遺構などが出てきたことから、本多忠政がここを整備する以前から何らかのお城の構造物があったことは間違いないようです。
しかし、ここに本格的な建造物を作り、西の丸として今日見られる姿にしたのはやはり本多忠政だと言っていいでしょう。本多忠政は、徳川家康が最も信頼を寄せた徳川四天王のひとり、勇猛でならした本多忠勝の嫡子です。池田家3代目の光政が幼少を理由に姫路から鳥取に国替えになったあと、元和3年(1617年)に伊勢桑名藩から入封します。
忠政は入城するとすぐに鷺山の造成と周囲を取り囲む多門櫓の建造に着手し、併せて、前年祝言をあげた嫡子忠刻(ただとき)と千姫のための御殿である中書丸もここに建造しました。この三の丸造営の資金には、嫡子忠刻の部屋住み料として幕府より遣わされた10万石が当てられました。姫路藩の所領としての本来の石高は15万石ですから、この10万石がいかに大きなものであるかがわかります。これは将軍秀忠が、大坂夏の陣で心ならずも秀頼と引き裂かれ、心に深い傷を受けた愛娘千姫が、どうか忠刻とともに姫路で穏やかな第二の人生を送れるように、と舅の忠政に託しての特別ボーナスだったのでしょう。その意を汲んだ忠政は、この地に若夫婦のための上屋敷を建てるとともに、先に見たように三の丸の一角に武蔵野御殿という千姫のための下屋敷まで建てて彼女の心を癒そうと努めたようです。

さて、戦略的な視点でこの西の丸を見ますと、ここは姫路城全体の縄張の中で非常に大きな戦略上の拠点となっています。実は姫路城には地理的な欠陥があります。それは、城地のすぐ西側に男山、景福寺山という2つの小高い丘があり、ここを取られると防御がたいへん困難になるのです。しかも西側と言うのは姫路城が仮想敵としていた毛利をはじめとする外様大名の来襲ルートです。徳川家康からこの地を任された池田輝政も、最初、この城地の地理的な問題点から、秀吉が築城したこの地をそのまま利用するか、それとも別の場所に築城しなおすかを迷ったようです。しかし、最終的には反対意見を唱える家臣に対して「自分は城に籠って戦をする気はない、来襲してきたら城から討って出て勝つまでだ。」と言って、この地を選んだ、と伝わります。
そんな姫路城ですから、入城した忠政はすぐに西側対策に取りかかり、西の丸を防御の最前線として整備し直したものと思われます。それにしても、元和3年と言えば、元和元年(慶長20年)に一国一城令が発布され、ひとつの藩にお城は原則ひとつだけ残しあとは廃却する、またお城の改築、改修には幕府の事前許可が必要、と厳しく取り締まられていた時代です。いかに姫路城が例外視され、特別扱いだったかがわかります。

武者溜まり上り階段を少し登ると、足元に門柱の礎石が見えますね。往時はここに西の丸南入口門が建っていました。これはちょうどいノ門ほどの小さな高麗門でした。そしてそのすぐ左手をご覧ください。短い石段の上に、土塀に囲まれた小さな広場が見えますね。現在、石段を登ってこのエリアに立ち入ることはできませんが、ここは武者溜りと呼ばれる場所です。有事の際に、あらかじめここに兵たちを集合させて敵が近づいてくるのを息をひそめてじっと待っている、という隠れ場所なのです。江戸時代の軍学書によれば、標準的な武者溜りの面積は40坪(約132㎡)と決められており、ここに徒歩武者なら240人、騎馬武者なら40騎が収容できるように作られているので、兵の人数をいちいち数えなくてもここに集合させればわかる、と書いていますが、これは慶長・元和年間にもそういう思想だったのか、江戸時代中期以降に軍学者があと付けで唱えた理論なのかはわかりません。この武者溜りは標準の半分ほどの広さです。
いずれにしても、ここに兵を潜ませておく、という戦法は理解できますね。例によって菱の門を突破してきた敵勢は天守の見える方向に突き進むでしょうから、ここは完全に背面にあたります。そこで、いノ門方向に向かって突進する敵を、るノ門奥から繰り出した味方勢と一緒になって背後を襲う、という戦術です。

現在の西の丸そして、緩やかな階段を登り切るとそこが西の丸です。ここに建てられていた中書丸という忠刻・千姫夫妻の御殿は、元禄年間(1700年前後)に描かれた絵図面によると、ほんの4棟ほどしかその名残が見えませんので、その頃までには大部分が取り壊されてしまったものと思われます。絵図面の時点で、忠刻が亡くなって千姫が姫路を離れてから70年以上経っていますから、その間のいずれかの時代に取り壊したのでしょう。

 

西の丸撮影スポットさぁ、ここから天守群をご覧ください。松の木の緑と天守の白が一層素晴らしいコントラストを描いているでしょう? テレビドラマのオープニングなどにもよく使われる、城内きってのビュースポットです。お写真をどうぞ。

 

 

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